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タイの歴史|先史~第二次世界大戦 [まとめ]

タイ 歴史のまとめ

タイは、古代から現代まで歴史が深く、文化的多様性に富んだ魅力的な国です。タイは東南アジアで唯一、植民地支配を受けずに独立を維持した国であり、世界的にも珍しい存在です。本記事では、タイの歴史を時代順に追いながら、先史時代から第二次世界大戦までのタイの文化的多様性や外国からの影響を吸収してきたタイの歴史についてご紹介します。

目次

先史時代【有史以前の歴史】

タイ 歴史 先史時代

現在のタイにおける最も古い居住地は、約2万年前の旧石器時代にまでさかのぼります。

東北部のコラット台地で、紀元前3000年ごろには青銅製品を作り、紀元前4千年紀には米を栽培していた史前時代の住民の痕跡が発見されています。紀元前9世紀には、現在のタイの大部分を含むモン族とクメール族が王国を建国しました。これらの人々が南アジアの人々との接触から吸収した宗教、社会、政治、文化のアイデアや制度の多くが、後にタイの文化と国家アイデンティティの発展に影響を与えました。

紀元前2世紀には、現在のカンボジアと中央タイにあったヒンドゥー教主導のフゥナン王国が、インドとの商業的な接触を持ち、ヒンドゥー教の商人宣教師の拠点となりました。最初に記録されたタイの陶磁器は、紀元前3600年ごろのバン・チャンです。

ヒンドゥー教の影響この頃タイ人はムアンと呼ばれる小さな集団に分かれて緩やかに組織されており、東に隣接するクメール文化や西のインドのヒンドゥー文化に強く影響を受けていました。この頃にほとんどの人はヒンドゥー教の形式に改宗し、その痕跡は現代のタイの民間伝承や習慣に今でも見ることができます。

ナンチャオ時代【650-1250年】

タイ 歴史 ナンチャオ時代

ナンチャオ時代(650-1250年)は、タイの歴史において重要な時代です。

タイ人の祖先と考えられているタイ族は、中国唐朝の南西部に位置するナンチャオに住んでいました。ナンチャオは、中国との境界線を形成するとともに、後には中国とのライバルとなりました。タイ族は、1千年紀の多くの世紀にわたって、東南アジア大陸に移住していきました。ナンチャオ国家は、タイ族の発展に重要な役割を果たしました。タイ人は、中国の南部である現在の雲南、広西、広東に王国を建てました。多数の人々が南下し、中央平野のチャオプラヤ川流域まで到達し、クメール帝国の支配下で居住しました。おそらくクメール帝国の文化を受け入れたと思われます。

ナンチャオ時代の後にはスコータイ時代(1238-1438)が続き、1238年にはタイ族の首長であるスリ・インタラディットが、クメール帝国の支配下からの独立を宣言し、中央タイのチャオプラヤ川流域のスコータイ王国を建国しました。

スコータイ王朝時代【1238年-1438年】

タイ 歴史 スコータイ時代

スコータイ王朝時代(1238年-1438年)では、タ1238年に、タイ族の酋長であるスリ・インタラティットがクメールの支配から独立を宣言し、タイ中央部のチャオプラヤ川流域にスコータイ王国を建国しました。

中央タイの人々は、「タイ」という名前を自らに与え、それは「自由な人々」を意味しています。スコータイ王国は13世紀にはクラ地峡を征服し、ビルマ(現在のミャンマー)、ラオス、マレー半島の諸国からの戦利品や貢納によって資金を調達しました。ラムカムヘーン(ラーマ大王、在位:1279年-1298年)の時代には、スコータイ王国は中国の元朝(1279年-1368年)と外交関係を築き、中国の皇帝を名目上の上司と認めました。しかし、ラムカムヘーンの死後、諸国は徐々に独立を宣言し、政治的に弱体化したスコータイは、1378年に台頭する新興タイ王国のアユタヤ王朝に服従することを余儀なくされました。

1347年から1370年にかけて統治されたスコータイ王国のマハータンマラーチャ1世またはリタイ王は、仏教を導入して市民に広め、行政を回復させました。ラムカムヘーンの死後、スコータイ王国は急速に衰退し、諸国が独立を宣言したためです。

アユタヤ王朝時代【1350年〜1767年】

タイ 歴史 アユタヤ時代

アユタヤ王朝時代(1350年〜1767年)アユタヤは、1350年から1767年にビルマに略奪されるまで、タイの首都でした。四世紀にわたり、アジアで最大の都市の一つであり、最高時には周辺地域に約100万人が住み、4,000頭の戦象がいました。

アユタヤ王国は、タイのアユタヤ市を中心に存在したシャム王国で、12世紀の3月12日から1767年4月7日まで存在しました。王室のメンバーによって支配され、各地の自治領と貢納州のパッチワークで構成されていました。アユタヤ期に、タイ人は公式宗教を統合し、ヒンドゥー教の法律テキストとタイの習慣に基づく法典を編纂し、19世紀末まで有効でした。アユタヤは、地域で最も強力な王国となり、アンコールを占領し、クメールをタイの宗主国に服従させました。

1690年代に起こった血みどろの王朝闘争の後、アユタヤはいわゆる黄金時代に入り、18世紀第二四半期に比較的平和な時期が訪れ、芸術、文学、学問が繁栄しました。しかし、ビルマの力が増すにつれ、ビルマの侵攻により、1767年にアユタヤは滅亡し、その首都と文化が破壊されました。

トンブリ王朝時代【1767年-1782年】

タイ 歴史 トンブリ時代

1767年にアユタヤが破壊された後、中国系タイ人の将軍タクシンの指導の下、タイは迅速に回復しました。彼はチャオプラヤ川の西岸にあるトンブリに新しい首都を設立し、ビルマの侵略を成功裏に撃退しましたが、タクシンは自身の将軍たちによって打倒され、王位はチャオプラヤチャクリー将軍に渡りました。

チャクリ期【1767年~1782年】~ラーマ1世の誕生

タイ 歴史 チャクリ期

アユタヤが1767年に破壊された後、チャクリ将軍がタイの新しい首都バンコクに建設したグランドパレスを中心に、チャクリ王朝の最初の王、ラーマ1世が1782年から1809年まで統治しました。彼はアユタヤの文化遺産を復興することを目指し、バンコクで同じスタイルの寺院や宮殿を建設しました。この王朝は現在まで続いています。

初代チャクリ王たちはマレー半島北部を征服し、ラーンナー王国を征服することに成功しました。19世紀半ばまでに、バンコクは、中国やその他の移民の大量流入によって、40万人以上の人々が住む都市に成長しました。初代チャクリ王たちは新しい行政システムを確立し、新しい王宮と城壁を建設しました。

チャクリ王朝は、今日までタイを統治しており、1855年から1939年、および1946年から1949年まで、タイの国名は正式に「シャム」として知られていました。それ以前は、タイ人は伝統的に自分たちの国をムアントー・タイと呼んでいました。

チュラーロンコーン王の統治時代【1868年〜1932年】

タイ 歴史 チュラロンコーン時代

チャクリー王朝の第5代国王であり、ラーマ5世として知られていました。チュラーロンコーン王は1853年9月20日に生まれ、父の死後、15歳で王位に就きました。彼の治世は、彼の王国の現代化をもたらす抜本的な改革によって印象づけられました。彼は植民地支配を回避し、父の政策を引き継いでシャムを国際平等の一国として維持しました。

チュラーロンコーン王は奴隷制度を廃止し、現代教育や技術を導入しました。また、彼は西洋と外交関係を築き、アメリカ、イギリス、フランスと条約を結びました。チュラーロンコーン王の政策は、彼の息子であるワチラーワット(ラーマ6世;在位1910〜1925年)とプラチャーチャオプ(ラーマ7世;1925〜1935年)によっても引き継がれました。

1917年、ワチラーワットは、父親の名前にちなんで大学を創設しました。1921年、彼は全国的な初等教育の義務化を実施しました。チュラーロンコーン王の治世は、現代のタイの基盤を築き、国家の近代化に向けた舞台を作り上げたタイにとって重要な時代となっています。

タイの憲法制定と憲政時代【1932年〜1941年】

タイ 歴史 憲法制定

タイの憲政時代(1932年-1941年)は、タイの近代化に向けての基礎となった重要な時代です。

1932年6月23日から24日にかけて、プリーディー・パノミョンとプリブーンソンクラーム中佐に率いられた反乱によって、タイ政府は打倒されました。プリーディー・パノミョンとプリブーンソンクラーム中佐は、1932年6月27日に憲法制定とともに立憲君主制を宣言しました。1932年12月に施行された恒久憲法は、王冠にある一定の威厳と尊厳を回復させましたが、王の実際の権力は名目上のものに過ぎませんでした。この憲法は、王の権力を剥奪し、立憲君主制を確立させました。

1932年のクーデター以降、タイは数多くの憲法と政府を経験しました。しかし、どの憲法も王室の権力を実質的に制限することができず、王室はタイ政治において強力な力を保持し続ける事になります。憲政時代は、現代タイの基盤を築き、国家の近代化に向けた舞台を作り上げた重要な時代になっています。

第二次世界大戦中のタイ【1941年〜1944年】

第二次世界大戦中のタイ(1941年〜44年)は、タイの歴史において他国との関係性を築いた重要な時代です。

タイは、1941年12月8日の日本軍の侵攻まで、公式に中立の立場を採っていました。しかし、日本軍によるタイ侵攻を受け、1941年12月中旬には休戦と軍事同盟条約を日本と結びました。タイは日本と同盟し、英米に宣戦布告し、悪名高いタイ・ビルマ鉄道の建設に協力しました。この時期、タイが太平洋戦争で果たした最も重要な役割は、タイ・ビルマ鉄道の建設です。

1942年初頭までに、海上航路は非常に危険になっており、日本軍はビルマの自軍を補給する安全な陸上ルートが必要でした。タイは、数千人の連合国捕虜や何百万人もの強制労働者を鉄道建設に使用しました。また、第二次世界大戦中にアメリカやイギリスによってバンコクが何度も爆撃されたことも、この時期の重要な出来事でした。これらの爆撃は、タイの軍事独裁者であったプレーク・ピブンソンクラーム政権を日本との同盟から引き剥がすための圧力として行われました。

この時期は、現代のタイの政治的および軍事的な関係の基礎を築き、他の国々との関係を構築する上でタイにとって重要な時代になっています。

まとめ

以上、タイの歴史について簡潔ではありますが要点を絞ってご紹介しました。タイは古代から文明が栄えており、青銅器や稲作などの発明があったことが考古学的な調査で明らかになっています。また多くの民族がタイに住み、インドや東南アジアとの交流によって文化的な影響を受けてきました。その中で、タイは独自の文化と国民性を発展させ、隣国とは異なる独自のアートやクラフトも生み出しました。タイは東南アジアで唯一、植民地支配を回避することに成功し、自由な国家として発展してきた経緯があります。現代のタイの文化や国民性は、この豊かで独特な歴史に由来していると言えるでしょう。

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